否定されない、排除されない「居場所」が必要

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市内で、居場所事業に取り組んでいる「雪どけ」主催のセミナー、「ひきこもりの気持ち~支援団体の現状と成果&ひきこもり経験者のお話」に参加しました。

 

タイトル通り、「ひきこもる状態」にあった若者2人から、家の中に引きこもらざるを得ない苦しい気持ちや、そういう段階を経て、社会に出て行こうと奮闘する体験談など、時に笑いもありながら、興味深い貴重なお話を伺いました。

 

【居場所の現状】

「居場所」というのは、今、社会的なキーワードになっていて、行政や民間など様々な主体のもと、いろいろな形で運営されています。

一見、多様な選択肢があるように見えますが、「居場所を必要としているのに、どの居場所にも参加できない人」がいます。

ひとつの理由としては、大抵が、運営者の意向や事業目的にそって、年代や特性など(たとえば、高齢者とか、子育て中の親子とか、○○に興味がある人とか)対象者を限定していることから、場に参加する条件に当てはまらない場合。

ふたつめの理由は、対象者としては当てはまるけれども、場に馴染めなかったり、他の参加者とうまく関われなかったりして、参加の継続が難しい場合。

 

たしかに、「継続的して安定した運営をしていく」「そこに居る利用者が不快な思いをしない」ためには、ある程度の制約や制限も必要です。

でも、地域の中にそういう「場」しかなければ、いろいろな理由でそこに参加できない人は、家の中に引きこもるしかありません。

 

【みんながみんな、人とうまく関われるわけではない】

「みんなで仲良く!」は究極の理想ですが、誰とでも仲よくすることは至難の業です。

挨拶程度の浅い付き合いならば可能かもしれませんが、それ以上の関わりになると、人それぞれ独特の性質や癖や特徴があります。また、相互の相性もあるので、どんなに意識をして、気を配っていたとしても、人によっては「こんなことで」と思うようなことで傷ついたり、逆に傷つけてしまうことになったりする場合もあります。

トラブルまでには至らないけれども、「なんか、つまらない、魅力ない、心が満たされない」と、思ってしまう場合もあります。

特に、長らく引きこもらざるを得ないというのは、そもそも人間関係がうまくいかないことが要因となっているケースが少なくありません。

今のように「みんなで仲良くできること」が暗黙の参加条件のようになってしまっていると、実際にできるできないは別として、本人は著しく対人コミュニケーションに自信を失っている状態なので、なかなか参加は難しい。

 

【誰にとっても心地よい居場所にするためには】

他に選択肢がある場合には、他に行けばいいわけですが、そこしか行き場がない場合には、そこを一種の訓練の場として、失敗を繰り返しながら自分なりの心地いい場所にしていく努力が必要となります。

そして、その「努力」の大事なポイントは、「当事者だけが努力するのではない」ということと、「否定や矯正の延長線上ではない」ということです。

 

例示として挙げると、とっても大きな声でしゃべる人がいて、そこに居る誰もが「うるさい、不快」と感じていたとします。

一番手っ取り早い方法は、「もう少し、声を抑えて話してくれますか」と、お願いする方法があります。

でも、実は、それでは本当の解決にはつながらないのです。

なぜならば、「適切であったり、心地よいと感じる声量」は、人によって異なるからです。ある人にとっては丁度良くても、ある人はまだ大きいと感じ、ある人は小さくて聞こえないと感じます。あるいは、声量ではなくて、声質や話の長さとか、喋り方の癖などを理由として、「うるさい」と感じている人もいるかもしれない。

つまり、「その場に居る人」の気持ちに合わせて、誰かを変えていこうとすると、際限なく改善したとしても、それで100%満足してもらえるかどうかはわからないわけです。

また、「なぜ、大きな声でしゃべるのか」、その人なりの理由があります。

それ以外の方法ではしゃべれない場合もあります。

 

次に、解決の方法として「声を抑えること」が適切であると想定した場合。

「声が大きいから、声を落として」と、いきなり言われた場合と、自分でもなんとなく場から浮いてるなーと気づいて、何が原因なんだろうと考え始めて、でも自分では答えがわからなくて周囲の人に思い切って聞いたとき、「うーん。たとえば、声を落としてみたらどうでしょうね」と言われた場合と、どちらが受け入れやすいでしょうね。

同じ言葉なのに、前段の場合には「自己否定、矯正指導」されたように感じ、後段は「有り難いアドバイス、渡りに船」と、素直に受け止められます。

 

よく言われることですが、「排除や拒絶」で物事を解決する方法ばかりだと、必ずいつかは、「自分が排除され、拒絶される立場」に行きつくことになります。また、「諸悪の根源となっている「場」自体がいらない」、ということにもなりかねません。

「受容と許容」は、一見、誰かに合わせるために自分がいつも我慢しなければいけないと不満に思えるかもしれませんが、人間は完ぺきではありません。いつか自分の至らない点が表出した場合があっても、認めてもらえるという安心感につながります。

 

【ある種の「覚悟」と「人間に対する絶対的な信頼」が必要】

とはいえ、「受容」とか「許容」のバランスも難しいし、困難な状態がいつまでたっても解決できない場合もあります。厳しい判断が必要な場合もあると思います。

でも、そういう悪い想定ばかりしていると、何もできないし、何も進みません。

 

今回のセミナーでご紹介していただいたNPO文化学習協同ネットワークでは、自己否定して人生を諦めてしまっていた若者たちが、まさに、生まれ変わったように生き生きと社会参加している事例を誕生させています。

人間は何歳になってもやり直すことができるし、それを可能とする気持ちが芽生えてくるということを信じて、「待つ」「見守る」というが大事なんだと、あらためて実感しました。

 

★特定非営利活動法人「文化学習協同ネットワーク」のHP

 

 

 

tomoko