子ども自身の「問題解決能力」を育むことも、大事では?

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平成26年度・国分寺市青少年問題協議会パネルディスカッションに、参加しました。
今年のテーマは、「みんなでつくる いじめのないまち国分寺〜地域の絆でいじめをなくそう〜」です。
パネリストは、市内中学校の生徒会役員
6名、市長、小学校長、保護者、大学教授で、
それぞれ異なる立場から、さまざまな意見があり、いろいろと考えるきっかけとなりました。

 

アンケートの結果を見ても、「いじめ」はよくないと、ほとんどの子どもたちはわかっています。
わかっているのに、なぜ、他者をいじめるという行為に至ってしまうのか。
なぜ、よくない行為を見逃してしまうのか。

 

頭で理解したことを、100%遂行・実行できるほど、人間は器用ではありません。
だからこそ、失敗を繰り返し、経験を積み重ねることによって、はじめて体得できるものだと、私は思っています。
逆に言うと、そういう「試練」あるいは「訓練」なくして、
そう簡単に獲得できるものではない、ということです。

 

そして、残念ながら、今の子どもたちを取り巻く環境を鑑みると、
「頭で理解するための機会」には、恵まれていますが、
「それを、自分自身のものにしていくため」には、どうすればいいのかという、
肝心要の部分が、あまり重要視されていないような気がしています。

 

私が小学生だった頃、「帰りの会」がありました。
日直の司会で、その日一日あったことを振り返るわけですが、
そこは、大変元気な小学生のことですから、毎日必ず、「〇〇に、嫌なことを言われて傷つきました」といった、「問題提起」が噴出するのです。
名指しされた方も、言われるだろうと心得ていて、自分の名前が出るや否や、「あばしれて(「ふざけて」という方言)やりました。もうやりません、すいません」と叫ぶように言って、できるだけ速やかに収めようとします。
それで事が済む場合もあれば、「そんなふざけた謝り方では、許せません」とか、「〇〇は、いつもそう言うけど、いつも同じことを繰り返しています」などという、異議が出ることもあります。
また、指摘された方が、「なぜそういうことをしたのかと言えば、実は…」と、反論する場合もあります。
当事者間の水掛け論になり、なかなか決着がつきそうにないと、日直が「他の人たちは、どう思いますか」と、学級全体に投げかけます。
問題解決に向けて、ああだこうだと議論するわけですが、
担任の先生は、基本的にその話し合いには一切出てきません。
話し合いがあまり長引きそうだと、いったん職員室に戻ったりします。
長いときには、
2時間くらい、「帰りの会」をしたような記憶もあります。

 

自分がされたことを言う場合もあれば、人がされているのを見て、「あれは、よくないんじゃないか」という、問題提起をする場合もありました。
自分たちのことは自分たちで解決する、学級で起きたことは学級の中で解決するという、
当事者意識、自分自身こそが問題解決の主体者なんだという意識に、満ち溢れていたように思います。

 

当時は、「子どものケンカに、親は出るな」という、合言葉がありました。
子どもの視点と大人の視点は違うので、大人がしゃしゃり出てくると、余計こんがらがったり、頓珍漢な采配を振られたりすることも少なくなかったからです。

 

それが当たり前だと思っていたのですが、自分の子どもが小学校に上がったとき、学級でのトラブルの解決を家庭に求められるケースが結構あり、本当に驚きました。
当の本人を抜きにして、担任と母親、母親と母親が、電話で連絡をとり合う中で、事を収めるのです。

 

大人が良かれと思って設定した解決策が、子どもにとっても解決策になるとは限りません。
当事者ではない分、問題の本質を見誤っていたり、
独特の思い込みや価値観で、子どもの行動や思いを規制・矯正しようとして、
子どもからすると、納得できないまま終わらされてしまうケースは、ないのでしょうか。

 

問題提起のレベルの高い低いはあったけれども、ある時には泣きながら、学級全体が熱く、真剣に言い合いをした「帰りの会」を思い出すたびに、
実は、とっても貴重な時間だったんだなぁと、しみじみと感じます。

tomoko