「集団的自衛権」の憲法解釈変更 〜あなたは、次世代の平和を担っていく子どもたちに、どう説明しますか?〜

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私が小学生の頃、毎年86日は、登校日であった。


我がふるさと広島に、人類史上初めて、原子爆弾が投下されてしまった、まさにその日に、
私たちは、「平和とは何か」、「戦争とはどういうものなのか」、「これからの社会を生きていく私たちは、何をどう考え、生きていけばいいのか」ということを、学び、話し合ってきた。

 

私は当然、日本中すべての学校で、同様の学びが行われているものと思っていた。
けれども、大学入学を機に、広島の地を出たとき、そうではないということを知った。

 

大学入学時に行われた、学部学科の縦割りの新歓コンパの席上、「広島県出身です」と、自己紹介を始めた途端、「原爆症、大丈夫か」との、ヤジが飛んだ。
30年経った今でも、あの場面は忘れない。

まさに今回のあの都議会での議場のように、追随するヤジがいくつか飛び交い、嘲笑が漏れた。

将来、教師を目指す人たちの集団でありながら、暴言を止めてくれる人も、私を擁護してくれる人も、
いなかった。

 

その年の夏休みに、帰省した友人たちと久し振りに会ったとき、やはり、この話題になった。
中には、面と向かって、「自分は、広島出身の人とは結婚しない」と、言われた人もいた。
言った本人は、相手を傷つけているとは、微塵も思っていないようであったという。

 

これが、これまで培ってきた日本国での「平和教育」の現状かと、
憤りを感じるとともに、この国は、これから先、どうなっていくのだろうかと不安になった。

 

【日本国憲法 第九条】
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

当時、まだ小学生ではあったが、崇高に謳い上げたこの条文の意味を聞いたとき、
内容の素晴らしさとともに、「国の覚悟」が伝わり、全身が震えるように感じた。

自分たちは、直接的には戦争を知らない。
けれども、この精神をしっかりと受け止め、この国のみならず、全世界的な平和を守っていくんだという、気概のような思いも芽生えた。

 

あるとき、学級の中で、こういう意見交換があった。
夏休みの学習ワークの裏表紙には、子どもたちから寄せられた詩や短文が紹介されていたのだが、ある年に、「自衛隊のばか」と題された詩が載っていた。

担任は、「ばかという表現はよくないし、自衛隊に勤めている人が身内にいる場合には、不快な思いをする」と、明確に指摘した上で、しかしながら、作者がこの詩で何を表現したかったのかということを、丁寧に説明してくれた。

 

戦争はしないはずなのに、まるで戦争する準備をしているようではないか。そのことに対する怒りと恐怖を表現した言葉が、「自衛隊のばか」である。
けれども、実は、作者は大きな思い違いをしている。
自衛隊が、自らの意思で戦争することはできない。
意思を持つのは、常に、国家の中枢にいる人たちである。
怒りや恐れは、その人たちに対して持つべきである、と。

 

私たちの国には、武力を永久に放棄する「憲法」があるのだから、担任が心配するようなことは起こるはずがないと私は思ったし、そのときに、そういう発言もしたのではないか。

 

これからの学校教育現場において、この「集団的自衛権」を、どのように説明していくのだろうか。

曖昧な言葉でお茶を濁すのではなく、あの時の担任のように、
毅然として、事実を伝えてほしい。

そして、決定に至るプロセスを含めて、「憲法」のあり方と大きく矛盾するこの内容について、
子どもたちには、ぜひとも、自分の頭で考えてもらいたい。

 

これらの事実をしっかりと受け止めた上で、自国に留まらず、グローバルな視点から平和をどのように構築していくのか、

次世代を担う子どもたちには、決して独りよがりの思い込みで性急に結論を出すのではなく、
ぜひとも、世代や国籍を超えた、多様な議論を熟成させてもらいたい。

 

それに託したいと思うのは、甘いか?

tomoko