「普通の素直ないい子」じゃなかったから、掴み取れたこと

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今日の講師の綾屋紗月さんの著書『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』の帯のお写真。右が綾屋さん、左が共同著者の熊谷晋一郎さん。この他にも、『発達障害当事者研究』の共著も。

今日は、障害者センターで行われた市民福祉講座「発達障害~本人の五感・本人が見る世界~」に参加しました。講師は綾屋紗月さん(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員)です。

当事者の視点から、一般的に言われている「発達障がい」の捉え方を、根本から問い直す研究成果を示していただき、
私がこれまで漠然と感じていた疑問が、実証されたという感想を持ちました。

特殊教育から特別支援教育に転換されて以降、私は市議会という場で、
「発達障がいという概念が出てきたことで、障がいがあるなしの線引きが、非常に難しくなった。
だからこそ、新たな障がいの線引きに使うのではなく、一人ひとりの子どもの多様性を受容し、寄り添った学校教育現場に変える、“気づき”とすべきである。
これまでは、障がい当事者ばかりが、努力を強いられてきた。
けれども、そうではなく、教師やクラスのお友だちや保護者など、周囲の人たちも努力して、理解し受け入れていくことが、必要ではないか。
教育委員会や行政は、そのような地域や社会への変革を目指し、様々な施策を構築すべき」と、繰り返し指摘をしてきました。

先週金曜日の、発達障がい当事者の若者たちの話を聞いても感じたし、
今日の綾屋さんの研究結果としても、挙げられていましたが、
「コミュニケーションがうまくとれない」というのは、どちらか片方だけの問題ではありません。
言語を獲得していない乳児や日本語の話せない外国の方とでも、コミュニケーションをはかることは十分に可能です。
けれども、そのためには、言語以外の方法で発せられる相手の感情を理解しようという気持ちを、
こちら側が持つことが不可欠です。

「言語」だけに頼ってコミュニケーションすることは、実はとても難しいことなんだと、最近感じています。
同じ単語を使っても、その意味までも共有できているとは限りません。
また、音としての言葉は理解できても、その言葉にのせた相手の感情までをも理解するには、また別のスキルを必要とします。

逆に言えば、言語に頼り過ぎず、自分の目や耳や感覚で、相手の言わんとすることを理解するスキルを身につければ、
発達障がい当事者の方がお困りになっている「悪気はないのに、相手を傷つけてしまう」という言動に対しても、誤解を生じないで、受け止めることができるのではないでしょうか。

 

小さい頃の私は、なんでも疑問に感じたり、それは違うと思ったり、親に反抗することが多かったので、「天邪鬼」とか「小理屈言い」などと呼ばれていました。どう考えても、納得いかないことに関しては、その都度その都度、しっかりと主張をするわけです(^0^)/

当時、『幼稚園』とか『小学一年生』という学習雑誌を、毎月購読していたのですが、本を読むのが好きだった私は、家に届くとその日のうちに全部に目を通し終えてしまい、
ほかに読むところはないかと、「おうちの方へ」と題された、保護者の悩み相談のページにまで目を通していました。
そこには、私のような子どもへの対応に困っている親の悩みと、それに対する諸先生方からの回答が載っていて、
私自身の言動に関する考察としても大変参考になりましたし、また、自分以外の事例も知ることで、こんな子もいるんだ~、へぇ~という気づきにもなりました。
回答された先生はどういう方たちだったのか全く覚えていませんが、さすがというか、子どもを否定するような内容はほとんどなかったような記憶があります(余談ですが、今の時代の方が子どもに対する見方が厳しいかも)。
自分だけで感心しているだけではもったいないと、
さっそく母に、「子どもはこういうもんだから、逆に親がこんな風に対応しないといけないんだよ」というアドバイスをして、「生意気言うんじゃない」と、余計怒られたりもしました。

このように、大人の価値観や考えとは異なったり、想定外の言動や態度を示す子は、まず間違いなく「育てにくい子」「問題児」というカテゴリーに当てはめられてしまいます。

でも、常に大人は正しいのでしょうか、社会は間違っていないのでしょうか。

多様化・複雑化する現代社会ゆえに、一般的に「社会的な問題」とか「課題」とされていることを決して鵜呑みにしないで、
果たしてそうなのかということを、まず、自分の頭の中で考えてみることが大事だとつくづく思います。

なぜならば、見方の基準や観点を変えると、結果がガラリと変わることがあるからです。

 

さてさて、「天邪鬼」とか「小理屈言い」と称された私は、その後どのようにして生きてきたのか?

私は、「生まれながらにして完璧な子どもはいない、子どもはみんな未熟な存在である。だから、焦らないでいろんな失敗をしながら、20歳までにしっかりとした人間になればいいんだ」という独自の哲学を生み出し、
それを揺るぎない信念として持つことで、ともすれば自信を失いそうになる自分自身と闘ってきたように思います。

そういう体験を経たことによって、私は、どんな悲しい体験であっても、知らないよりは知っている方が、むしろ人生においてプラスに転じることがあるんだということを知りました。
「そーそー」と、相手に共感できることが増えていくんだということに気づきました。

そして、むしろ、こういう性格のおかげで、社会情勢や世論や声の大きな人に右往左往したり振り回されたりしないで、自分なりに判断し、それなりに納得のいく人生を歩めてきたんだと満足しています。

今、生きづらさを感じている子どもたちや若者の皆さん、その感覚や経験を、むしろ「財産」にしましょう。

「財産」を蓄積した人たちが増えることで、間違いなく社会は変わっていくと、私は考えています。

tomoko